*現在正箱での出荷はできません。(中国の税関で止められる為) 真空袋に入れ替えての発送となります。
茅台酒(マオタイ酒)は、貴州省仁懐県茅台鎮産の白酒で、酒精度は53度。500年近い歴史をもつ酒である。
茅台酒には、普通の白酒にはない独特の芳香があり、これを「茅香」と呼んでいる。この香りは、醤香と窖底香という穴蔵の匂いにコクのある旨さがとけあって発するもので、中国人は醤香タイプの白酒の風格を完全にそなえた酒として歓迎しており、1953年の第一回酒類品評会のときから八大名酒の筆頭にあげている。この酒は、貴州省仁懐県茅台鎮で生産されており、その産地名が酒名になっている。
茅台酒は小麦と高粱を原料とし、当地の優良な泉水を配合して醸造、長期間カメに密封のうえ、更にそれを蒸留して造られる。熟成期間は3年以上。透明にして芳香に富み、白酒中の絶品といわれ、「国酒」(国を代表する酒)や「酒中珍珠」(酒の中の真珠)と呼ばれ珍重される。
日中国交回復の宴席では、周恩来首相が田中角栄首相をこの酒で接待した。また、中国ではしばしば祝いの宴席で乾杯に用いられることなどから、名実ともに国酒といえる。貴州茅台酒は乾杯の酒としても有名である。
茅台酒の原料:
茅台酒の醸造用水は深い井戸から汲み上げるが、深山幽谷から湧き出た清冽で純粋清浄、水質良好な水が酒質を最高にしている。
茅台酒は、原料に精選された貴州産の高粱と小麦を用い、高温で処理した小麦の麹で醸造する。
原料は、砕いた高粱と砕かないままの粒を混合して特殊な「沙」と呼ぶ処理をほどこすが、まだ蒸していないものを「生沙」、蒸煮して発酵したあとは「熟沙」と呼んでいる。蒸すときに、砕いた粒と砕かないままの粒との混合の比率を2対8にする。生沙発酵後、2回目に生沙を投入して再発酵させるときの混合粒の比率は3対7になる。このように、茅台酒とほかの白酒とでは原料の処理の仕方が違う。また茅台酒は原料と曲を大量につかい、発酵期間が長いうえに何度も発酵させて何度も酒を取り、その酒をブレンドして完成品にするのが特徴である。
茅台鎮:
貴州省の西北にある遵義市から鴨茅公路に沿って西北へ120kmほど行くと、赤水河畔に出る。その河畔にあまり大きくない町がある。そこが茅台鎮である。
赤水河の西岸には高山が連なり、地形は険しく、茅台鎮は古くから水陸交通の要地として知られている。また、ここは1935年3月、中国工農紅軍が2万5千里の長征の途中、赤水河の第三次渡河を敢行したところとしても有名である。
赤水河は高山深谷のあいだを流れ、夏から秋までは水流が岩をかみ、荒れ狂うほど奔騰するが、冬から春にかけては水量が少なく、泳いでいる魚が見える。茅台酒廠は茅台鎮のはずれに建てられており、赤水河の水に育まれて茅台酒は名酒になるといわれている。
茅台鎮のある雲貴高原は海抜400m、気候は温潤そのもの、厳冬の季節でも零下2~3度までにしか下がらず、人々は単衣の衣服ですごす。この地方の気候と水などの風土が、特殊な微生物の繁殖に適しており、茅台酒独特の品質醸成に重大な影響を与えているといわれている。
茅台酒廠が建っている楊柳湾には、明代の嘉靖8年(1529)に作られた炉が残っており、その施主のなかに大和焼房の名が見える。焼房というのは焼酒作房の略称であるから、この地方では500年ほど前からすでに白酒が醸造されていたことがわかる。しかしその後、仁懐地方は戦火にあって荒廃してしまう。『遵義府志』によれば、明の万暦25年(1597)に仁懐城堡は廃されたとなっており、その境界内にあった茅台鎮もなくなってしまった。
茅台地区の農業生産が回復したのは清代になってからであるが、清初のころは小さな漁村にすぎなかったと『仁懐県志』に書かれてある。当時、貴州の生産が少しばかり発展したとはいうものの、銅と錫の鉱石を四川まで運ぶ見返りに、生活に欠かせない食塩を四川に頼るという程度の生活でしかなかった。塩を貴州まで運ぶには、人か家畜に頼るしか方法はない。しかし貴州の山は高く道は険しい。塩にかぎらず、物質の運送は困難をきわめて日数がかかるうえに運賃が高くなり、それが貴州の人々に重い負担となってのしかかっていた。
そんなとき思いついたのが、目の前を流れている河を利用する船便のことである。赤水河はたしかに四川と貴州両省の間を南から北へ流れて、四川省の合江県で長江と合流する。しかし、この河の舟行もまた困難をきわめていた。
昔から「赤水河は万山の中の一筋の渓流、猿猴灘から雞鳴灘まで六十八灘あり、
巨岩奇岩が流れにそそり立ち、万仭の山は両岸に壁のように立つ。しかも灘の波は高く激しく、その勢いはしばしば航路を阻む」といわれているほどの難所である。しかしついにその難所も取り除かれて、赤水河を舟で往来できるようになった。
18世紀中頃の茅台村の情況は、『遵義府志』によると、乾隆10年(1745)、貴州総督、張広泗が河道を改修してからはじめて舟が通るようになり、塩舟が集まるようになった。河から四川の塩が入るようになったのは、このときからである。
その後、商い舟が新城の茅台村に入るようになり、蜀船とともに城外に停泊するようになった。
川塩は河を通って茅台までまっすぐ運ばれてから陸揚げされ、そこで売られて貴州の各地へ送られるようになった。
川塩というのは、川を通ってくる塩という意味ではない。四川省でとれる塩のことで、蜀塩とも呼ばれている。四川省は海に面してなく、山に囲まれた地域ではあるが、実は中国でも有名な塩の産地なのである。
成都から重慶へ列車で行く途中、成渝線を内江で乗り換え、さらに南へ下ると「自貢」という街がある。自貢の山では二千年も前から、山に細い穴をうがち、地下1000mの地中から塩をとっている。『天工開物』によると、中国の塩の種類は豊富で、海塩、池塩、井塩、土塩、崖塩(砂石塩)に分けられ、その80%は海の塩だが、あとの20%が井塩や池塩などであるという。
中国料理のコックに言わせると、自貢の地中深くから汲み上げた塩水を精製した塩は純粋で味がよく、料理にもっとも適しており、四川のコックは海外へ出稼ぎに行くときも蜀塩を携えて行くほどである。
茅台村は川塩の集散地になり、商人、商い舟の往来が日増しに多くなってしだいに発展し、村から小鎮市になっていった。道光年間(1821~1850)に、ある詩人が、「蜀塩は貴州へ行き、秦商は茅台に聚まる」と、その様子をうたっている。そのころ、貴州商人が組織をつくって川塩の運搬にあたることが多く、儲けてそれぞれが裕福になっていくにつれ、彼らも自然に美酒をたしなむようになった。
そのとき、茅台酒はすでに優美で独特の風格を持っていた。人々の需要にこたえて生産も増えていき、それを裏付けるかのように茅台鎮の酒坊は増加の一途をたどって20軒以上になり、その盛名は日がたつにつれて世間に知れ渡っていった。
当時、赤水河一帯の名物は茅台焼春と合江仏手柑、それに葫蘆渓一帯に産出する南竹の冬筍で、赤水河に舟を浮かべて酒をくむ風流人もいた。
しかし清朝の咸豊、同治年間(1851~1874)になると、清の軍隊が太平天国の翼王、石達開の進撃を阻止するためと苗族の人民蜂起を鎮圧するために、茅台鎮に兵を進めた。そのとき付近一帯が破壊され、茅台酒の生産に大きな影響を与え、一時期衰えかけたこともあった。その後、同治2年(1863)に成義酒房が建てられ、続いて同治12年には栄和酒房が設立された。1929年には恒興酒房が設立され、この3つの酒造工場が1951年の貴州解放まで続いていた。
新中国成立後、国営の茅台酒廠が設立されてから、科学的な新醸造法を開発して生産量を増やし、酒質も一定になるようにした。それ以来、茅台酒は日増しに有名になっていった。
以下の都市を発送することができます: 北海道、青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島、東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬、山梨、新潟、長野、富山、石川、福井、愛知、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良、和歌山、鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛、高知、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄
購入記録(最近取引ができた数量0)
まだない人はこの商品を買ったことがある。